昭和38年6月、川崎市電前面展望 [昔鉄写真]
昭和40年早春のNSE前面展望 [昔鉄写真]
先日非鉄交じりの爺婆仲間で「そうだ、箱根行こう」という話が持ち上がり、久々にOERロマンスカー時刻表なんか調べていたら、今から58年前(!)の昭和40年春の或る日、小田急NSE車の前面展望席に亡父と乗った時のネガスキャン画像があるのを思い出しました。サイズ小さいですがご覧くださいまし。
乗車区間は小田原→新宿、前後の行動スケジュールとかは全く記憶にありません。
まずは喜び勇んで着席!小田原出発直後の前面風景です。
(1)新幹線交差部はなにやら工事中ですね。小田原駅も今では随分変わりましたが当時は空が広かった。
まずは喜び勇んで着席!小田原出発直後の前面風景です。

新松田~渋沢間はカーブが続きトンネルも2か所あってスピードはあまり出ませんが、前面展望車だとタノシイ楽しい。

2本のトンネルの間で行きかった箱根湯本行き急行はHEこと2400形。CedarにとってのOER急行と言えば江の島/箱根湯本行き併結ってのが鉄板イメージです。最近のOERは10連、8連の固定編成が主力ですから時代は変わったものです。


すれ違う電車は多くなく、各停はたしか30分ヘッドだったのでは?


小田急ファンに人気の無いお電車でしたが、20m4ドアの導入を容易にしたのはこの電車がいたから、と言えますね。今回は登場しませんが、通勤に特化した2600系も前年(昭和39年)に新造されています。

郊外のこのあたりでは例の補助警笛を鳴らしながらすれ違います。今回初めて気がついたのですが、前面下のは連結器でしょうか?

このあとも新宿まで展望室写真は続きますが。場所が一気に飛んでいます・・・普通の鉄なら見逃さない相模大野通過画像が無いのはどうしたことかぁ!

いきなり近郊区間(当時、小田急の用語でサバー区間)になりまして、2400HE車+2200ABF系列の6連の各停です。場所は経堂~豪徳寺間です。

(当時中坊の自分にこんな写真撮れるはずはなく、撮影は全てCedar父です。)
当時の小田急は18m車6連分のホーム長しか無く、その一方でサバー区間と呼ばれた新宿~向ヶ丘遊園間は年10%の割で輸送量が増加していたそうですから、近郊区間各停の車体大型化は急務でした。車幅2900mm、20m4ドア5連の2600系登場も当然のことだったようです。

この写真をはじめ、当時は架線柱も創業当時のが普通に使われていたと今回確認(またかよ!)。昭和2年開通ですから撮影当時まだ38歳の働き盛りですものね。
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以上、58年前のNSE展望室写真~例のごとく撮影場所の記憶がエエ加減でスミマセン。
コロナ禍を経て再び賑わいをとり戻してるらしいロマンスカーですが、VSEも引退し、連接車の伝統も途絶え、車内販売も終了と、「どうしても乗りたい!」と思わせる「ハレのワクワク感」や「華」が無くなってしまった気がするのは瘋癲鉄爺Cedarだけでしょうかねぇ?
ではまた。
こんなに暑くなかった頃の夏写真たち [昔鉄写真]
熱帯夜や猛暑日続きの2023年の夏、線路端でお電車撮る気も失せました~
そりゃ気合が足りないからだ!~隙間電車やら尾根遺産お背中電車やら撮ってる瘋癲老人ですからねぇ~。
そんなCedarにも気合というものがあった1967年=昭和42年、高校1年の夏。父と花巻→福島にお電車撮影に出かけたときのカラー写真を~
(1)旧ふブログ時代にご覧に入れた写真ばかりですが、この季節になるとファイルから呼び出したくなる写真たちです。
そりゃ気合が足りないからだ!~隙間電車やら尾根遺産お背中電車やら撮ってる瘋癲老人ですからねぇ~。
そんなCedarにも気合というものがあった1967年=昭和42年、高校1年の夏。父と花巻→福島にお電車撮影に出かけたときのカラー写真を~
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まずは花巻電鉄、夜行急行から降りると、こんな風景が寝ぼけまなこに飛び込んできました。
有名な馬面電車も辛うじて生きていました~この時は事業用となっていた木造デハ5、奥には鋼製馬面の姿も見えます。
有名な馬面電車も辛うじて生きていました~この時は事業用となっていた木造デハ5、奥には鋼製馬面の姿も見えます。

交換駅の花巻グランド前、電車よりも周辺メインなのがCedarらしい?

そして午後はいよいよお目当ての軌道線(鉛線)へ~
仙台で一泊して福島交通飯坂東線(軌道線)へ~
鉄道雑誌で見たとおりのルーラルトロリー風景に感激しましたが、結局一期一会で終わってしまった福島の電車でした。
鉄道雑誌で見たとおりのルーラルトロリー風景に感激しましたが、結局一期一会で終わってしまった福島の電車でした。
そんなこんなの1967年夏。写真からは伝わってこないけど、このころだって夏は充分暑かったんです~でもまだ「日本の夏」でした~今みたいな熱帯気候なんかじゃなかった。
「ゆく夏を惜しんで」などという常套句で〆る季節ですが、とてもそんな気分ではない2023年の夏に送る56年前の夏写真たちでした。
「ゆく夏を惜しんで」などという常套句で〆る季節ですが、とてもそんな気分ではない2023年の夏に送る56年前の夏写真たちでした。
ではまた。
銀座の都電5501 [昔鉄写真]
前回の三菱スカイリング→三愛ドリームプラザ解体の記事のオマケにご覧に入れた、都電5500の画像の続きです。
総勢7両あった「和製PCCカー」5500ですが、実際にメリケンのパテントによるPCCカーは5501だけで、5502以降の6両は日本の技術で作られ、参加メーカーの頭文字をとってMSN車などと呼ばれていました。
こちらは4丁目交差点を渡る5502です。
5502は竣工が遅れていた純正PCCカー5501より先に、初代5501として登場した車両ですね。この日は動ける5500はお名残りで=1系統専用車ですから実質この日が最終運行=総動員されてたようです。
こちらは4丁目交差点を渡る5502です。

再び5501。銀座2丁目電停で丸子橋行き越後屋バスとのツーショット、バスの色も懐かしいなあ。
当時は東京駅から郊外への長距離直通バスがかなりあって、1枚目の池上駅行きとか九品仏行きとか、吉祥寺行きとか、蕨市行き、なんてのが終点エリアの私バス車両で都心まで来てましたね。

こちらは京橋交差点でのショット、金融機関や商社の多いこの界隈には重厚なビルが数多くあり、繁華街銀座とは違う東京風景が見られました。
5501と他車との違いは、台車が本場譲りのスカートで隠れてることです。
純正PCCは内側台枠ですから急カーブでも大丈夫だったのでしょうか~。5502他の6両は通常の外側台車枠なので、台車部スカートが切り取られています。

5501と他車との違いは、台車が本場譲りのスカートで隠れてることです。

その日は夕暮れとともに、師走の買い物客とお名残乗車客が入り乱れて大混乱~
よく分からないこんな写真もあります~名残を惜しむというより単なるお祭り騒ぎになって、当時から人混み嫌いのCedarは、名残り惜しそうな父を急かしてとっとと帰宅したのでした。
そのころヒットしたコミックソング<走れコータロー>のなかで呑気な喋りを物真似された、当時の都知事が嬉しそうな顔で廃止記念電車に乗っている映像が、その夜のTVニュースで流れてて、鉄少年Cedarは<なんだかなあ?>と思ったものです。

そのころヒットしたコミックソング<走れコータロー>のなかで呑気な喋りを物真似された、当時の都知事が嬉しそうな顔で廃止記念電車に乗っている映像が、その夜のTVニュースで流れてて、鉄少年Cedarは<なんだかなあ?>と思ったものです。
後になって「都電の撤去は間違いだった」と言ったとか・・・おせーよ!!そんなこんなで5501の銀座でのショットでした。
たま~にヤフオクなんかに5501のモケーが出るとついポチリたくなる、メリケンお電車フェチCedarなんです。都電ならコレ、欲しいです・・・
ではまた。
今日は11月11日ですね。 [昔鉄写真]
今日にちなんだ写真探してみたらありました。都電唯一のゾロ目1111。
撮影は昭和36年、場所は神明町車庫、撮影当時Cedarは小学生でしたから、こんな写真撮れるわけもなく、撮影者は父です。でもこの写真撮った時の記憶はあるのですね。この時は銀座通りの都電廃止に伴い1100、1000が使われていた40番(神明町ー銀座)が無くなるので、神明町まで散歩がてら撮影に出かけたのでした。
フレーミングでお判りですが、父の目当てだったのは営業車両では1000、1100だけに残っていたブリル76E台車でした。
思えば、今やアラセブ鉄爺となったCedarが台車フェチ、それも古いアメリカン台車フェチとなったのは、ガキの頃にこういう撮影について行ったのが影響してるんですね。
銀座通りの都電廃止時点で、純正アメリカ台車は営業車両から消滅し、高床車両も消えたのでした。
こんな写真↓を見ると、今でも胸がざわつくんです。
なんだ、結局はフェチ話かいな!
はいはい、お古いお手軽ネタでした。
どうもすみません。
ではまた。