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アベックとお電車 [今昔鉄写真]

3連休真ん中19日の夕方、休日にはまず近付かない二子玉川にいました。IMG_0199.jpg(1)学生時代からの腐れ縁友人♀が、<久々に飯食おうよ!>と、やってきたからでした。
彼女がおフランス留学中は留守宅に2年間イソウロウしたり、夏休みに留学先のパリに無理やり押しかけたりと、着かず離れずで50年(爆)以上、古希も間近い爺婆ふたり~IMG_0190.jpg(2)メシ前になんとなく多摩川河畔に行ってみたものの、ご覧のような光景が~IMG_0194.jpg(3)どこかで見たような景色だなアと思ったら京都の鴨川ですね。越後屋DT&OM線ならぬ京阪電車が走ってるころに、何度か見た景色です~コロナ対応じゃなくても微妙なディスタンスを開けて座るのも同じですよね~カップル、というより今じゃ死語となったアベック、という昭和な言葉が似合う風景だなあ。

そういえば、こないだ観直した映画にもこんなシーンが~20.JPG(4)そうか、昔から金のない男女は土手で語り合うのだ・・・と思いましたが、こういうのは時代とか場所を超えてる普遍的な河畔の景色なのかもしれません。

IMG_0198.jpg(5)ステンレスボディが夕陽にギラリ~ってのが今風景か?
腐れ縁友人♀と知り合う前、高校時代に撮った同じ場所の写真をどうぞ。東急車輛08R.jpg
(6・7)昭和43年の兵庫島は全く整備されてなく、葦がぼうぼう茂る荒地でした。二子玉川s4306R.jpg野良犬が徘徊してたと言われるこんなところにアベックなんか来ませんねえ~
DT線鉄橋もまだセンターが青天井のころです。二子玉川s4301R.jpg(8)田園都市線が大井町~長津田だったころですね。
緑色の3000系も元気に多摩川を渡っていきます。二子玉川s4303R.jpg(9)

再び現在写真~手前はひょっとしてメトロの新形ですかね?IMG_0187.jpg(10)当然ですが、手前に写ってる女の子は我々にはカンケーありません。

50年の変化はホームの長さにも~昔写真だとホームは川の上にはありません~二子玉川s4304R.jpgIMG_0193.jpg(11・12)上とほぼ同じポジションの現在~このあたりの変貌もさすがにここまでかな?そう願いたいもんです~IMG_0186.jpg(13)
そんなこんなで陽が落ちて、腹減ってきた爺婆はモロッコ料理店へ~マグレブ-c735e4975241ffc0a106334b8d1eac.jpeg(14)月の砂漠ならぬ中秋の名月直前のフタコでディナータイム。

話題は知人の消息(生死確認含む→共通の友人の孤独死なんかも知らされちゃったりして~)や、本人や家族(ちなみに彼女のダンナは名前書けば皆さんご存知の某映画監督)の体調のことなど、典型的な老人性会話でしたね。マグレブ640x640_rect_148948475.jpg(15・16)クスクス↑とタジン料理↓食べながら、ヒソヒソとタニンのうわさ~(爆)マグレブoriginal-cfec3c28e5b4a11732a41c2ce5fe3528ba6220cc.jpeg

そんなこんなで敬老の日前夜、爺婆アベックの夜も更けていきましたとさ。

ではまた。

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EF510-230

おお、(7)の写真私も同じものを撮っています。
by EF510-230 (2021-09-22 08:53) 

Cedar

■EF510-230様
おお、ひょっとして一緒に行ったのかな?あのころは玉電撮りに何度か行きましたね。叢に立ってる怪しい人物も同行者かも?
by Cedar (2021-09-22 09:24) 

ひでほ

兵庫島は思い出が小生もたくさんありますが、最近は整備されちゃったのかな?幼稚園時代はばあさんと父の姉に連れられてよくいきました。もちろん往きも帰りも玉電で。もろっこ料理おいしそう。玉川高島屋ができたころから、二子玉川変貌し、気取った街になっちゃいましたね。
一時、二子の上野毛寄り線路沿い、城南学園という塾に通っていたことをおもいだしました。
by ひでほ (2021-09-22 17:42) 

Cedar

■ひでほ様
腐れ縁友人は千歳船橋生まれ&育ちの世田谷原人で、高島屋ができたころによく来ていたようです。モロッコ料理美味かったです。
by Cedar (2021-09-22 17:48) 

シグ鉄

その様な関係の女性は私にはいませんので、どんな感じなのか想像つきませんが、楽しければそれで良しですね。
この頃、二子新地前ー高津が単線で二子新地前止まりってのがあった様な、、、記憶に自信なしですが。
by シグ鉄 (2021-09-22 18:56) 

OER3001

腐れ縁友人♀とのデートなんてサイコーではありませんか!
そう言う友人といくつになっても食事ができるなんて、なかなかあるものではありません。感謝、感謝ですね。それもCedarさまの人徳あってのことかと。
それにしても初期の田園都市線、まだ橙/紺塗装の吊り掛け車もいっぱい居たし、楽しかったです。
あっ、因みにOER3001氏にも二人で食事することがある友人♀は居ますよ。高校のクラブ仲間でした。
by OER3001 (2021-09-22 19:37) 

Cedar

■シグ鉄様
はい、休日のディナーはやはり相方がいた方が楽しいです。二子新地止まりの存在は記憶にありますがこの時代なのかが不確かです。朝に溝の口の折り返しが逼迫するので設定されていたような気もしますが・・・
■OER3001様
この歳になるとこういう友人は貴重だと思います。彼女が来てくれたおかげで休日の河畔のアベックずらり+お電車ショットも撮れました、爺独りで写真撮ってたら絶対盗撮疑われちゃいます(ww)

by Cedar (2021-09-22 20:41) 

Cedar

■シグ鉄様に追伸
二子新地止まり~橋梁が高津付近の高架化より一足先に完成して新地⇔高津が工事中単線になってしまったから~という可能性もありますね。(調べればわかるんですが、ついついズボラこいてしまいます)
by Cedar (2021-09-22 20:47) 

伊豆之国

またまたくだらない思い出話です…。
二子玉川"園"(元世田谷区民は間違っても「ニコタマ」などとは言いません)界隈の多摩川の河原の景色、思わず涙が出るほど懐かしいですね~。昭和43年というと、それまで二子橋の路面の真ん中を単線でのろのろ通っていた「大井町線」が専用の複線鉄橋になり、「田園都市線」が長津田まで開通して間もないころ。その頃の田園都市線は、こちらもデビューして間もない7200系の4連が主力で、鷺沼から先は名前の通り一面の畑と里山のど真ん中。日中は鷺沼で切り離して2両編成で運行、という、今から見ると想像もつかないのどかさだったのでした。その頃、夏になると鷺沼にあったプールによく通ったのも懐かしい思い出でした。
二子玉川の上流側の中洲「兵庫島」は、昔は池のようになっていて、貸しボートがあったのを覚えています。そのさらに上流の砧側には「読売飛行場」があって、小型機の練習場になっていたような記憶もありました。
…それにしても、二子玉川園跡地とその周りの醜悪な再開発。富士山の眺めまで奪ってしまった高層ビルの林立、どうにかならなかったものでしょうか。
by 伊豆之国 (2021-09-22 21:40) 

シグ鉄

追伸返しです。記憶が蘇ってきました。二子玉がこの形になった時代は長津田まで開通した後です。私がバカ松小学校に毎日通った時代。Cedarさんご指摘の様に高架化される過度的時期で一部単線区間が残り二子新地前止まりが結構ありました。
私が乗った電車は、長津田行き、梶が谷行き、二子新地前行きが多かったと記憶しています。鷺沼行きは入庫する時だけなので少なかったはず。
この段階では溝の口行きはもうありません。溝の口は2面2線の単なる対向ホームでしたし、渡りすらなかったはずです。
by シグ鉄 (2021-09-22 22:15) 

Cedar

■伊豆之国様
同じくニコタマなんてのは最近の余所者の言い方で今でも大嫌いです、世田谷育ちの亡妻も腐れ縁友達も「フタコ」ですね。
再開発を主導したのが越後屋電鉄ですからどうにもならなかったんでしょう。
■シグ鉄様
追伸返しありがとうございます。やはりそうでしたね。
by Cedar (2021-09-22 22:57) 

Chitetsu

長い時間が流れても繋がっていられて、時々会う〜。
良い時間が流れている雰囲気を感じました。
by Chitetsu (2021-09-23 10:14) 

Cedar

■Chitetsu様
昔から<淡交>という言葉が好きなんです~この歳になるとしみじみ大切に感じます。会いたくても会えなくなってしまう人も出てきますね~
by Cedar (2021-09-23 10:45) 

チャッピー

 半世紀にわたる異性の友人って素晴らしいですね。二子玉川も私にとって一番身近な河川で新婚時代川辺のマンション借りて住んでおりました、身近すぎて電車の写真殆ど撮って無いのが悔やまれますが。
by チャッピー (2021-09-23 12:27) 

Cedar

■チャッピー様
玉電が廃止になる前後によく来て、今回の昔写真もその時のお駄賃です。そして帰りは桜新町の鉄仲間の家でいだうだしていました~いさみやさんはこのころからある、ってのは凄いです。
by Cedar (2021-09-23 12:35) 

八犬伝

いいですねえ
50年以上の付き合いって
なかなかありませんね。
by 八犬伝 (2021-09-23 15:51) 

Cedar

■八犬伝様
ジェンダー関係なく長い付き合いの友人、やはり良いものです。
一方で歳の離れた友人ももっと欲しい~などと思う欲張り爺です。
by Cedar (2021-09-23 16:01) 

にぶろく

横から失礼します。
地元民は「ニコタマ」って言わないんですね。
西宮出身の私が阪急・西宮北口を「ニシキタ」と言うのが大嫌いなのと似ていますね(笑)。古い住民は「キタグチ」と言ってました。

by にぶろく (2021-09-24 09:23) 

Cedar

■にぶろく様
西宮北口=ニシキタって言うんですか?学生時代に今津線沿線の某校の女子とお友達で、平面交差見ながら今津線ホームで待ち合わせしたころは「キタグチ」でした・・・失礼ながら「ニコタマ」ってのはなんでも縮めちゃう関西の影響受けたのかと思っていました。
by Cedar (2021-09-24 16:42) 

にぶろく

Cedarさまは各地にガールフレンドがいたんですね。
女学院?小林聖心?羨ましい限り(笑)。
最近の特に若い人は「ニシキタ」と言います。
有川浩の小説・映画「阪急電車」でもニシキタって言ってましたね。
私はCedarさまと同学年なので、感覚も同じなんでしょう。

by にぶろく (2021-09-24 20:57) 

Cedar

■にぶろく様
あの小説がニシキタなら、阪急も半ば公認なんでしょうね。はじめて関西に行ったころは梅新とか天六とか面白いと思いました。当時東京にはこういう呼び方は無かったので~今津線のGFには「最寄駅までくるのは止めてくれ」と言われ、いつもニシキタ待ち合わせでした。そんなわけで今津北線に乗ったのはつい3年前でした(爆)。
by Cedar (2021-09-25 01:00) 

サットン

鴨川土手。大学時代京都に通っていた私にとっては憧れの場所
でしたが、残念ながら野郎以外と腰を下ろす機会はありませんでした。
by サットン (2021-10-01 18:59) 

Cedar

■サットン様
鴨川の土手で女子と語り、眠眠で餃子を食べて、時には百万遍の進々堂や北山通りあたりでまたまた女子と~なんて学生時代を送りたいとマジで考えてた東京モノでした。
by Cedar (2021-10-02 01:48) 

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