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昭和40年早春のNSE前面展望 [昔鉄写真]

先日非鉄交じりの爺婆仲間で「そうだ、箱根行こう」という話が持ち上がり、久々にOERロマンスカー時刻表なんか調べていたら、今から58年前(!)の昭和40年春の或る日、小田急NSE車の前面展望席に亡父と乗った時のネガスキャン画像があるのを思い出しました。サイズ小さいですがご覧くださいまし。

乗車区間は小田原→新宿、前後の行動スケジュールとかは全く記憶にありません。
まずは喜び勇んで着席!小田原出発直後の前面風景です。
m_s40NSE01E5B08FE794B0E58E9F.jpg(1)新幹線交差部はなにやら工事中ですね。小田原駅も今では随分変わりましたが当時は空が広かった。

m_s40NSE02E8B6B3E69F84E4BB98E8BF91EFBC9F.jpg(2)富水あたりから新松田までは直線区間が多く、結構スピードが出た記憶があります。この当時は途中停車駅も少なく(無停車だったかも?)、所要時間も今よりも短かったんじゃないでしょうか?NSEが登場した当時、新宿~小田原間60分以内を目指す!といわれてたのも今は昔のこと?・・・・。
m_s40NSE03-335fa.jpg(3)酒匂川の鉄橋上で、小田原行き急行1900の4連とすれ違い、吊り掛け車も急行に使われてた時代です。

新松田~渋沢間はカーブが続きトンネルも2か所あってスピードはあまり出ませんが、前面展望車だとタノシイ楽しい。

m_s40NSE04E38388E383B3E3838DE383ABEFBC91-5d530.jpg(4)
2本のトンネルの間で行きかった箱根湯本行き急行はHEこと2400形。CedarにとってのOER急行と言えば江の島/箱根湯本行き併結ってのが鉄板イメージです。最近のOERは10連、8連の固定編成が主力ですから時代は変わったものです。
m_s40NSE05.jpg(5)相模大野で江ノ島行きと分かれて身軽になった姿です、行く手に見えるのは最近もロマンスカーの宣伝写真に出てくる四十八瀬川の鉄橋と思われます。

m_s40NSE06E38388E383B3E3838DE383AB2.jpg(6)新宿寄りのトンネルを抜けるとアップダウンの多い相模原の台地を行く区間へ。
すれ違う電車は多くなく、各停はたしか30分ヘッドだったのでは?
m_s40NSE09-179d5.jpg(6)ロマンスカーに乗れない庶民は急行で~(急)ヘッドサインも懐かしいHE車4連の小田原行きです。直線の多い線形からして、鶴巻温泉~伊勢原間あたりでしょうか?当時は急行の停車駅も今より少なく、スピードも速かったですね。座席もロングシートながらソファ感覚の深く低いシートでした。このころは相模大野過ぎると車内で煙草吸えたんでしたっけ?
m_s40NSE10.jpg(7)やっと来ました(爆)小田原行き各停は1800、ロクサンの成れの果てを小田急風の前面に更新していましたが、最後まで異端児でした。4000との混結運用で脱線事故まで起こしてしまいましたし。

小田急ファンに人気の無いお電車でしたが、20m4ドアの導入を容易にしたのはこの電車がいたから、と言えますね。今回は登場しませんが、通勤に特化した2600系も前年(昭和39年)に新造されています。


m_s40NSE11-ead42.jpg(8)続いてやってきたのはSE車当時はオリジナルスタイルを保って、ロマンスカーの一翼を担っていました。
郊外のこのあたりでは例の補助警笛を鳴らしながらすれ違います。今回初めて気がついたのですが、前面下のは連結器でしょうか?


m_s40NSE07E7949FE794B0EFBC9F-a02e1.jpg(9)お次は御殿場線直通のDC、キハ5000でしたっけ現在の「ふじさん」の先祖ですね。特別準急という種別もユニークだったし、OERに単行列車が走ってたというのも今の人は信じないかもですねえ。

このあとも新宿まで展望室写真は続きますが。場所が一気に飛んでいます・・・普通の鉄なら見逃さない相模大野通過画像が無いのはどうしたことかぁ!
m_s40NSE12.jpg(10)どうも相模大野の手前あたりから、親子そろって居眠りしたようです(こらこら!)そんな中でNSE同士のすれ違いに慌ててシャッター切ったと思える酷いフレーミング!NSEは撮影の2年前、昭和38年に登場して、たちまち超人気となったのはご存知のとおりです。(この場所は喜多見~成城学園前ではないか?とご指摘いただきました。)


いきなり近郊区間(当時、小田急の用語でサバー区間)になりまして、2400HE車+2200ABF系列の6連の各停です。場所は経堂~豪徳寺間です。

s40NSE13-3d445.jpg(11)今は高架複々線となっているこのあたりも、当時は世田谷らしい欅の木立も多くのどかな雰囲気でした。ちなみにここは我が家の菩提寺と墓のすぐそばで、撮影者である父もそこに眠っています。
(当時中坊の自分にこんな写真撮れるはずはなく、撮影は全てCedar父です。)



当時の小田急は18m車6連分のホーム長しか無く、その一方でサバー区間と呼ばれた新宿~向ヶ丘遊園間は年10%の割で輸送量が増加していたそうですから、近郊区間各停の車体大型化は急務でした。車幅2900mm、20m4ドア5連の2600系登場も当然のことだったようです。

m_s40NSE14-93f72.jpg(12)さすがに近郊区間。正面からの応接に忙しいですね。爆発的輸送量増加の中で、茶色の旧型車も辛うじて残っていました、小田急の分類でHB車と呼ばれていた創業当時のお電車です。場所は梅が丘の新宿寄り、向こうに見える跨線橋は世田谷代田駅。今では複々線が一気に地下に潜るあたりです。
この写真をはじめ、当時は架線柱も創業当時のが普通に使われていたと今回確認(またかよ!)。昭和2年開通ですから撮影当時まだ38歳の働き盛りですものね。
m_s40NSE15 (1).jpg(13)今では地下複々線となった世田谷代田~下北沢間ですれ違うのは、SE車の特急回送。ロマンスカーのねぐらだった経堂と新宿の間に多く設定されていました。

s40NSE16新宿.jpg(14)終点の新宿に到着し、名残惜しい展望席を1枚カメラに収めました。このアングルから見ると「流線形」という表現がぴったりのデザインですね。今では小田急タクシーにしか見られなくなってしまった(爆)艶やかな塗装とともに、ロマンスカーの華やかさをかもし出していました。
m_NSE.jpg(15)

以上、58年前のNSE展望室写真~例のごとく撮影場所の記憶がエエ加減でスミマセン。


コロナ禍を経て再び賑わいをとり戻してるらしいロマンスカーですが、VSEも引退し、連接車の伝統も途絶え、車内販売も終了と、「どうしても乗りたい!」と思わせる「ハレのワクワク感」や「華」が無くなってしまった気がするのは瘋癲鉄爺Cedarだけでしょうかねぇ?

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(OERホームページより)
往復ロマンスカーで行くのか?片道はバスにするか?などとつい考えてしまうんだよなぁ・・・・


ではまた。

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